2011年9月15日木曜日

1945年9月17日 枕崎台風 「大野の里を平和の里へ」のメッセージ 

今日、Good morning 761の中でご紹介いたしました話題。
66年前、枕崎台風の被害で156名の死者行方不明者をだした大野陸軍病院の 当時看護婦でいらした守谷ミサさんの講演会が17日(土)午前10時から11時半 日本赤十字看護大学 ソフィアホールであります。(阿品台東1丁目)
人災である原爆と天災の枕崎台風の二十苦で亡くなられた方のことが風化されてはいけないという思いで 今年90歳の守谷さんが筑波から 単身で廿日市にお話にいらっしゃいます。
そのあと、 大野の洗心園では 17日14時半から慰霊祭があります。
洗心園には 水害死没者と洗心園で息を引き取られた方の魂が 現在は 一緒に眠っています。 
守谷さんも年に一度の慰霊祭に向かわれます。 一般の方もどうぞご参加くださいとのことです。


守谷ミサさんの昨年のお話はこちら(→クリック) 
洗心園は(→クリック


また 17日(土) 10時から14時まで 京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑前(宮浜温泉 米山広場)でも京都大学主催の慰霊祭があります。
米山広場には 京都大学の慰霊碑と旧大野町がこの記憶を消すまいと被爆60年の時に作った遭難碑の二つの碑があります。 昨年は 廿日市市長や議長なども参列される5年に一度の式典があり 私も取材にいきました。
去年の式典で ご遺族の方が 原爆の研究、 被爆者治療のために広島入りし、枕崎台風で殉職されたお父様への無念の想いをのべていらっしゃった様子が印象に残っています。
原爆投下後 大野陸軍病院で収容されていた原爆患者は逃げる間もなく 土石流にのみこまれたといわれています。
京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑はこちら(→クリック


この写真は(左)が守谷ミサさん著 「従軍看護婦の見た病院船・ヒロシマ」 
(右)が柳田邦男著 「空白の天気図」

原爆投下後のこと、そして 枕崎台風のことがよくわかります。

2 件のコメント:

  1. フェニックスセブン2011年9月15日 16:17

    日本の教育制度の汚点の一つに、日本の近代史を、隠す事です!、戦争中の事や戦後の事は、教えていないんですね!、戦争中、地震があったり、台風があったり、爆弾が民間人に投下されたり、食料が配給だったり!、多くの国民が、飢えて、爆弾に焼かれ、自然災害の驚異に、さらされた厳しい現実が、あったことを学校では、教えない???

    返信削除
  2. フェニックスセブン2011年9月15日 17:23

    一般的には、赤十字マークを、大きく描いた病院船は、戦争中でも中立だから大丈夫だと考えられてますが!!、なんとアメリカ軍は、日本の病院船を攻撃していたんですよ!!、だらか看護婦であっても、死と直面しながら看護をされていたんです!、考えされる事ではないでしょうか!

    返信削除